日本音楽集団
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 第182回定期演奏会 モニターレポート

■モニターレポート(M.K.氏)

I.全体の印象

 この度は、吉村七重さんの企画・構成による演奏会で、邦楽器による合奏曲が5曲演奏されました。

 作曲コンクール応募作品が2曲あり、そのうちの1曲「アントレラ」はルーマニアの方の作品でした。邦楽の各楽器の特徴を十分咀嚼した作品で、とくに尺八では無段階の旋律を用いるなど、独特の音響を導き出している。日本人以上に達者な扱い方に感心しました。

 もう1つの方「夕霧がそっとおおったのは…」では、7種の邦楽器を色々な組み合せで対比し、又協奏した曲。各楽器の特徴を引き出した名人芸的な見せ場もある。例えば最後の方で、箏の不協和音やグリッサンドが面白い。

 「皎月」はゆっくりしたテンポであくまでも静謐な夜の世界。中天に浮かんだ満月のさやかな光がこの地を照らし、静まっている情景が思い浮かびます。尺八と箏の息の合った演奏が見事でした。

 「セレナード第5番」では、笙と打楽器を主役に据え、他のメロディー楽器は脇にまわる、という珍しい試み。大きく呼吸するようなテンポの中で、笙と打楽器を中心として、他の楽器が適宜からんで、最後にクライマックスを迎える。確かにこの試みは成功したと言えるでしょう。

 「星夢の舞」。21名の奏者による華やかな舞台。はじめ、軽やかなメロディーで各種の楽器が代る代る現れて、色々なリズムが交差します。
 後半、尺八の短管・長管のソロに始まり、賑やかな全奏となるあたりから一挙に盛り上がってきます。尺八奏者6人が一せいに立上って吹奏します。この辺りからジャズテイストとなり、各楽器が交代でソロをとり、即興演奏がなされます。奏者も自然に身体が揺れて浮き浮きした楽しいムード。その波動はダイレクトに聴衆に伝わってきて、次第に興奮の度を増してくる。最後にブルース調も出てきて、賑やかに終止する。感銘深い盛り上げ方です。曲が終ってロビーに出ても、まだ聴衆は上気していて、興奮のさめやらぬ面持ちでした。

 指揮者の板倉氏はトークの中で「指揮には上からコントロールするやり方と、メンバーの自主性を引き出すやり方があるが、自分は後者のやり方をとっている」旨の発言がありました。確かにこの日の演奏は、生気に満ちていたように感じます。

 5人の作曲家による5つの作品を聴いた訳ですが、創造の世界は広く、豊かな可能性のあることが実感できました。

II.各曲毎に

1.「アントレラ(もつれ合い)」
 笙の涼やかな響きに始まり、尺八が定かな音程のない無段階の旋律を吹奏する。琵琶や二十絃箏も加わり各楽器がそれぞれ独自の音色でからみ合いながら進行する。この間、打楽器奏者は、太鼓・銅鑼・木魚・鐘など様々な楽器を操りながら、強奏・弱奏と変化をつけながらアクセントを刻む。尺八長管にムラ息の強奏が出る。途中から人の声も加わる。又も尺八に無段階のメロディーが出て、異界のものが現れてきそうな雰囲気となり、最後は立ち消えるように終る。

 現代邦楽の作曲家は、日本の大方の作曲家も同様でしょうが、クラシックの作曲技法を基盤として、さらに邦楽器の特徴を会得した上で作曲するのでしょう。ルーマニアの事情はよく分りませんが、邦楽器を日本人以上に使いこなした力量は大したものです。
 無段階の旋律が引き出せるという尺八独特の性能に興味を覚えたのかも知れません。随所にこのような旋律が出ていたように思えます。尺八に限らず、他の楽器も熟知した上での作曲で、打楽器群を面白く扱っておりました。

2.「夕霧がそっとおおったのは…」
 最初の曲。長管尺八の低音から、笛・三味線・琵琶・箏等が連れ出されてくる。三味線の強奏、小鼓の拍の刻み、箏が面白い。三味線や箏のかけ合いのメロディーラインが目新しい。
 次の曲。笛のメロディーに箏が呼応する。箏が低音弦をアクセントをつけて奏し、これに尺八が乗る。三味線と箏の協奏。
 次に。箏の不協和音が面白い。そしてグリッサンド。二十絃箏が活躍し、それに尺八がつき合う。

 7種(打楽器群を1種と数えて)の邦楽器を色々な組み合わせで協奏し、また合奏した曲。各楽器の特徴を引き出した名人芸的な見せ場もあって面白い。

 ただし、最後の方の不協和音やグリッサンドを聞いていると、「夕霧から想起される情緒的なもの」とは異なるものを感じる。「作品」は作曲家から離れれば一人歩きするものですから、画一的な規制はできないのでしょうね。

3.「皎月」
 尺八の弱奏から始まる。静かにメロディーが流れる。中天に浮かぶ満月の光がさやかにさして、この地は静まっている。
 尺八に箏が和して、押し手の余韻を響かせる。
 広大な夜空に雲も行き交っているのか。
 「荒城の月」の情緒とも通ずる所もある。
 ゆっくりしたテンポで、あくまでも静謐の世界。夜の世界。ダメ押しのような終わり方が独特でした。
 尺八と箏、いつもながら息の合ったお二方による好演でした。

4.「セレナード第5番」
 笙と打楽器を中央に置き、周囲に3つの楽器群(管楽器群、箏群、三味線・琵琶・胡弓)を配置する。笙と打楽器という顔ぶれが主役を担い、メロディー楽器はサポートに徹するという趣向。
 作曲者のトークでは「濁った水槽に手を入れた時何がとれるか。得体は分らぬが、いい感じのものに触れられればよい」と、謙遜からか半ば無責任のような事をおっしゃるが。奏者11名の演奏で、さて何が飛び出してくるか。

 序奏は、呼吸するようなテンポで、箏などのピチカートと笛群のゆったりした合奏。笛の澄んだ響きに導かれて、太鼓・銅鑼等が独自のリズムを刻む。
一段落して、箏のトレモロに笙や管が加わる。
尺八や笛のからみも面白い。
打楽器がテンポを支配している。
笛の一様な響きの中で、弦のトレモロが装飾する。
笛と各楽器との組合せ。
笙の強奏に弦がつき合う。
三味線、琵琶の単調なメロディー。
笛が、箏が断片的につき合う。
打楽器の奏法・テンポは多彩をきわめ、主役を全うする。箏はメロディーを弾くより、伴奏に徹する。一方の主役、笙と各楽器群との組合せ、対比。
サラリンのような箏の速いパッセージが行き過ぎる。
尺八や笛の鋭い断続音、胡弓の通奏音。
笙の強奏に導かれて、他の楽器群が強奏し、リズミックな絶叫調に至る。
主人公2役抜きで序奏と同じメロディーを合奏。
最後に、笙と打楽器で、抑えて終止する。

 笙と打楽器を主役に登用したところが、極めてユニークで、見事にその責めを果したと言えます。
 作曲者の言う所の「いい感じのものに触れる。」ことが出来ました。

5.「星夢の舞」
 21名の奏者が登場し、カラフルな衣装により華やかな舞台。
 はじめ、長管尺八と笛のかけ合いによる転がるような軽やかなメロディー。
 箏のゆったりしたリズムにのって篳篥が歌う。
 三味線や琵琶が登場。拍子木の乾いた音。
 笙・篳篥のノイジーな音を尺八が下支え。
尺八6管が合奏し、これに笛も参加。
 箏の弾みのあるリズム、ささら(簓)のアクセント。
 尺八や笛のトレモロ、弾みのある笛の音。
 笙の涼し気な音、笛との対比。
 尺八6管の合奏。
 各種の邦楽器が入れ変り立ち変り、色々なリズムでからみ合う。

 次に。
 箏の軽いリズムに尺八・笛が加わり派手なメロディーを示す。
 尺八の短管、長管のソロ。
 賑やかな全奏になる。歯切れ良く、勢いよく。
 尺八6人が立上って吹奏。
 2人の打楽器奏者が見せ場をつくる。
 笛が立上りソロ、次に篳篥がソロ。
 笙までソロをとった時は何かユーモラスな感じ。
 羽織袴姿で交互に立上って、アルトサックスならぬ邦楽器を手にしてソロをとり、ジャジーなメロディーを奏する。この時ばかりは思う存分の即興演奏。
 奏者もノッてきて、身体を揺すって、浮き浮きした感じ。
 次第に盛り上ってきて興奮の度を増していく。
 奏者の熱い波動がダイレクトに聴衆に伝わり、共鳴して、上気して、興奮気味となる。
 最後にブルース調になって賑やかに終止する。

 前半は各邦楽器の交響の面白さを堪能させ、後半は即興的なジャズテイストとなり、浮き浮きした奏者のステージが楽しい。
 作曲者は若い頃からジャズにも関心を持っていたようで、手のうちのものであったのですね。邦楽器によるジャズ調演奏は小生始めてのこと。作曲者の「遊び心」が現れているようでもあります。

 「一瞬たりとも退屈な音楽は書きません」という作曲者の言葉が紹介されましたが、確かにこの曲を聴いても、この言葉が裏付けられているようです。

 近くCD化が予定されると聞きましたが、それが待たれます。

III.吉松 隆氏のこと

 吉松氏は若い頃、ロック・ジャズ・邦楽などの音楽グループに参加していたようだ。作曲については一時松村禎三氏に師事したが、ほとんど独学で修めた。
 82年の管絃楽曲「朱鷺によせる哀歌」で尾高賞を受賞し、一躍注目を浴びるようになった。朱鷺の鳴き声を模した断続的な旋律で、哀惜きわまりないエレジーである。パブロワの「瀕死の白鳥」のバレエシーンが想起される。
 氏が活動を始めた頃の日本の作曲界は、前衛音楽主導の時代になっていた。氏は、より人間的な感動を大切にし、失われたメロディーを回復させ、潤いのある情感を取り戻したいという考えを持っていた。
 「朱鷺」に調性音楽を重ね合わせ、その運命を哀しみ、又その復権を祈念したとも考えられる。
 氏の作品には、この他に鳥に関するものも数多く、「鳥のカタログ」等の作品のあるメシアンの関心とも相通ずるものがある。
 現在までに、5つの交響曲、独奏楽器を異にする6つの協奏曲、「鳥の連作」などの管弦楽曲、室内楽、独奏曲、それに邦楽器を用いた曲等、ジャンルを問わず多彩な作品がある。今では国の内外でその名を知られている。CDのリーフレットの中で次のように述べておられる。
 「音楽は感情・感性を伝えるべく存在している。しかし作曲された楽譜は、音符という即物的な数値の羅列でしかない。この数式を具現化して心を与え、大気に放つと感性が立ち上る。その奇跡のような瞬間に立ち会えることが何よりの喜びである」と。
 確かに、多くの聴衆と共に、ホールにおける生の演奏に接し、雰囲気ともどもトータルの体験が得られることは大きな喜びである。

IV.日本音楽集団と聴衆について

 最近、ゲルハルト・ボッセ氏の指揮によるモーツァルトの「レクイエム」を聴く機会がありました。その際のインタビューで次のように語っておられます。
 「コンサートにおいては指揮者とオーケストラは発信者、聴き手の皆さんは受信者の役割りをします。聴き手は能動的には演奏に関わりませんが、集中して聴くことで、演奏者に応え、こうした聴衆からのリアクションが大きければ大きいほど、コンサートはすばらしいものになります。」と。
 この言葉は日本音楽集団の演奏にも当てはまるものと思います。
 「集団」の演奏者はプロフェッショナルとしての卓越した演奏技量と音楽性を備え、かつ現代邦楽への熱い想いを持って練習を重ね、質の高い演奏をされております。
 一方、聴衆の方は、(小生はまだ3回のみですが、いずれの回でも)演奏中には、しわぶきひとつ聞かれませんでした。このHPで前にT.H.氏が「舞台の奏者の衣ずれの音が聞こえた」と書かれていました。数百人の聴衆が集っているのに、これ程の静けさを保っているのは、傾聴する集中力によるものでしょう。
 発信者・受信者双方の集中力があって始めて、すばらしいコンサートが実現されるのでしょう。

V.邦楽合奏の響き、など

 合奏による音の響き具合を、無粋な話ですが、金属に例えてみるとこんなことになるでしょうか。
 「洋楽」は楽器が異なっていても、できるだけハーモナイズして、一つの響きに収斂していく方向を目指す。いわば合金でできた太い棒のようなもの。
 一方「邦楽」はこよなく協奏はしていても、それぞれの楽器の個性を無にすることはない。いわば、異種金属の細い線を何本もあざなって太くしたようなもの。従って、箏・三味線・琵琶・尺八・笛…それぞれのメロディーラインは容易にフォローすることができる。
 このように洋楽と邦楽とでは響き具合が異っている。これは良し悪しではなく、それぞれの特徴・特色、持ち味である。
 尺八ひとつとっても、2本と同じものが造れないのだから、邦楽器の合奏は成立しない、とする説が以前はあったようです。しかしこれは合金型の響きを絶対視した偏った見方でしょう。
 「集団」の160回を超える永い間の活動実績が説得力をもっております。

 今回の席は最後列の中央寄り(T列11番)で、ホール全体が見渡せるところでした。
 聴衆の入りは8割強といったところでしょうか。
 いつもながら演奏中は熱心に聴き入っていました。
冬の寒さも何のその、音の宴に満ち足りた気分で家路に着いたことでしょう。

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