一、内触覚的宇宙III虚空〜尺八と二十絃箏のための(1990年) 湯浅譲二作曲
〔尺八〕三橋貴風 〔二十絃〕吉村七重
二、原風景(1988年) 湯浅譲二作曲
〔笙独奏〕真鍋尚之
三、箏歌「蕪村五句」(委嘱・初演) 湯浅譲二作曲
〔二十絃箏と歌〕吉村七重
〔笛〕西川浩平 〔笙〕真鍋尚之 〔尺八〕米澤浩
〔太棹三味線〕山崎千鶴子 〔十七絃〕久本桂子
〔指揮〕田村拓男
四、天満つ…(そらみつ)(委嘱・初演) 久田典子作曲
〔二十絃箏〕熊沢栄利子
〔笛〕越智成人
〔打楽器〕尾崎太一・望月太喜之丞・盧慶順
五、組曲「風姿行雲」(1988年) 湯浅譲二作曲
〔歌〕穂積大志・宮越圭子
〔箏(A)と歌〕早川智子
〔太棹三味線と歌〕工藤哲子
〔笛〕西川浩平 〔笙〕真鍋尚之 〔尺八〕I竹井誠 II加藤秀和
〔胡弓〕多々良香保里 〔箏(B)〕桜井智永 〔十七絃(A)(B)〕田村法子・三宅礼子
〔打楽器〕臼杵美智代・多田恵子
〔指揮〕田村拓男
会場:津田ホール
主催:特定非営利活動法人 日本音楽集団
助成:平成17年度文化庁芸術創造活動重点支援事業
(財)花王芸術・科学財団
(財)ロームミュージックファンデーション
邦楽器のための作曲と私 湯浅譲二
邦楽器の作曲は大変難しい問題がある。それは、二律背反、つまり「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」という問題である。
楽器には歴史的に組込まれたいわば〈文化の記憶〉が内包されており、それが伝統的な性格となっているし、また楽器の生命ともなっている。
したがって、邦楽器を洋楽器とは異なる、単なる音源、音素材として扱えば、楽器の持っている根幹的な性格、生命を無視することとなり、邦楽器のために書く必然性がないことになってしまう。
しかも、一方で創造的行為には既成に把われずに新しく作るという意味があり、論理的には伝統を踏襲することや敷衍することと矛盾するものがある。
したがって、楽器の内包する生命を生かしながら、しかも新しく音楽をクリエートすると言う重大な問題がそこにあるのである。
しかし、邦楽の伝統には、拍を数えない時間、息の持続にもとずく時間性や〈あしらい〉などに見る「多層的な時間」そして十二平均律によらない音程、和声システムを下部構造に持たないところから起因する、曲った音、また一音の持続の中での多彩な音色の変化など、洋楽の中にはない、あっても副次的な要素が、逆に音楽の根幹をなしているという、洋楽の世界から見れば〈新しさ〉がそこに存在するのである。
以上の事柄を真剣に考え、吟味しなければ、安易に趣味的に邦楽器のための作曲は出来ない、というのが私の1967年(八面の箏とオーケストラのための「花鳥風月」)以来の考えなのである。
今回日本音楽集団のコンポーザーズ・プロジェクト・シリーズによって、私のこれまでのおおよその軌跡を聴き取っていただければ大変幸いに思っている。
内触覚的宇宙III虚空
1990年私が未だカリフォルニア大学サンディエゴ校に在職中に、三橋貴風、吉村七重のお二人の委嘱で作曲した曲である。
この曲は尺八本曲にある「虚空鈴慕」の無明の世界へのアプローチと、私の音楽の一つの核心でもある〈内触覚的宇宙〉の合体するところで作曲したとも言える。これは鈴木大拙師の説いた〈コズミック・アンコンシャスネス〉宇宙的無意識への音楽的参加とも言えるだろう。したがってここで言う虚空とは、空虚な何もない空ではなくて、時間と空間を超えた世界、大らかな力強いものなのである。
したがってイメージとしては無限の深みに拡がる虚空、また南カリフォルニアから、太平洋を越えて日本につながる空間、その広大な宇宙へとつながる空間への畏怖というものがあったのである。
原風景
この曲はカザルスホール・オープニングシリーズ・コンサートのための委嘱作品として、宮田まゆみさんのために作曲された。
作曲と言う行為はたやすくはないが、中でも伝統楽器(邦楽器)には、ただナイーヴに対処出来ないものがある。
例えば「笙」という楽器に向うとき、笙を歴史的に経時的に〈笙〉たらしめて来た存在理由を尊重しながら敷衍、伸張せしめる行為がある。伝統楽器の最大の魅力がそこにあるからである。
にもかかわらず、多方その対極にある、そうしたいわばコンベンション(常套的)を去り、インヴェンション(発明)へと向う、真性の創造的行為がなければならない。
17の音程と七音の合竹(和音)に基づく笙には制約が多いが、宮田さんの、笙を歴史的呪縛から解放しようとする自由な魂に、一曲を書こうと思った。
タイトルには「原風景」とあるが、この曲は宇宙の根源、人類あるいは文化発生の時点へと向う、いわば〈祈り〉としての歌でもあると言える。
したがって曲を現前させる呼吸作用が、単なる肉体的なものだけではなく、精神の作用として働き〈うた〉は遥かなるものへの掛橋として、一種の宗教的世界、リチュアルなものとしてあるだろう。
何故か宮田氏は初演以来今日まで17年間一度も再演していないが、今夜の真鍋尚之氏の演奏が、再演となる。期待して止まない。
箏歌「蕪村五句」
私には「箏歌・芭蕉五句」をはじめ、芭蕉の句にまつわる曲が多い中で、今回も同じく箏歌という伝統的な形の復活を目指してはいるが、蕪村の句を五句選んで曲とした。句は、冬春夏秋冬の順に配されており、終句は蕪村の辞世となっている。
1) 鴛鴦(おしどり)に 美をつくしてや 冬木立
龍安寺門前の池と借景になっている林から発句したものと言われる。
2) 菜の花や 月は東に 日は西に
よく知られた句である。地球の、日本の夕暮が宏大な宇宙とつながっている。
3) 狩衣(かりぎぬ)の 袖の裏はう 蛍かな
中世へのイメージが、視覚的なものと結びついている。
4) 狐火の 燃えつくばかり 枯尾花
冬も間近、妖しくも幻想的世界である。
5)白梅に 明くる夜ばかりと なりにけり
芭蕉の辞世「木枯や夢は枯野をかけめぐる」とは異なり、なんと沈静した世界ではないだろうか。
日本音楽集団の精鋭、6人の演奏家を選んで曲を書いた。特に二十絃と歌を受持つ吉村七重さんには、今回是非伝統的な発声の仕方で箏歌を歌っていただきたいと願った。
組曲「風姿行雲」
国立劇場の委嘱で作曲したものである。ディレクターの山川さんと打合せの結果、結局私の音楽を貫道する、人間と宇宙の相即相入、天地合体、主客同一の世界を詠んだ詩を対象とすることになった。
この撰択を畏友、大岡信氏にお願いしたところ、快く引受けて下さった。大岡氏はそれぞれ五つの和歌や俳句からなるA、Bの二案を示されたが、そこから音楽的構成を考えて、古典四詩、それに大岡氏自身の詩を最後に加えて、五曲の組歌、組曲となった。
私は、これまでにも芭蕉や世阿彌の言霊に啓発されていくつかの曲を書いて来たが、このように詩人・大岡信の眼差によって撰ばれた詩には、更に啓かれた世界がある。
もともと私の音楽には円環上に連なる二つの極がある。人類共通の根源的な普遍性と、日本語が私を規定する、自己証明的な、伝統を敷衍する二つの立場である。この曲の場合は、後者の極といってもいいだろう。
楽器も、言語と同様に、歴史性、文化性をそこに内包しており、それは一つの音のゼスチュアに至るまで貫かれている。
一方で邦楽器を邦楽器たらしめているいわば、文化性を尊びながら、他方そうした規範を超えて、自由なクリエーションへと向うことは、大いなる二律背反であり矛盾でもある。だが、私たちは今、その矛盾を克服する時に来ている。さいわい今夕の演奏家の方々は日本音楽集団からのいずれ劣らぬ名手ぞろいである。この再演を期待する所以である。
1) 天の川 岸辺の桃や 咲きぬらむ 空さへ花の 色に酔(え)いぬる
権僧上公朝(こうちょう)
2)行く春や 鳥啼き魚の 目は泪 松尾芭蕉
3)春日なる 三笠の山に 月の船出づ 遊士(みやびと)の 飲む酒?(さかづき)に 影に見えつつ 作者不明 旋頭歌(せどうか)
4)涼しさや 鐘をはなるる かねの声 与謝蕪村
5)あをあをと 明けゆく水に くさぐさの 魚類の声や あはれ静もる 大岡信
「天満つ…」 久田典子
今回、邦楽器の作品を書く機会をいただいて思い出された事は、それはまだ私が4、5歳の頃、初めてやや強制的に聴かされた雅楽の響きと、家で聴いていた三味線の事でした。以前から邦楽器には興味がありましたが、西洋の楽器で書く事が続き、実に久しぶりに邦楽の作品を書くこととなりました。雅楽が書いてみたい、いや三味線を使いたいなどと思いながら、結局は邦楽器を使って自分なりの音表現をしたいというのが本心であり、今回は雅楽でもなく、三味線も使わず、このような編成で書きました。長年意識している事、音のエネルギーがその方向を明確にしながらある種の緊張感を持続していく事は、やはり自分の作品にとって重要な事でした。また「天満つ」とは「そらみつ」と読み、これは日本書紀によると、ニギハヤヒノミコトが天の磐船に乗って空を見下ろし天降ったので「空見つ大和」と言った事から、「そらみつ」は「大和」にかかる枕詞となりました。大和に自然につながるこの言葉のように、自分に向かって自然につながる作品が書けたらという思いで「天満つ…」としました。
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