創立50年にあたり、有識者から頂いた特別寄稿をご紹介いたします。

日本音楽集団の50年とこれから

小宮 多美江

 日本音楽集団の歴史はその前史も含めるとほぼ私の評論活動と重なる。私の場合あの60年安保闘争の波に誘い出されなかったら音楽に携わることさえなく過ごしたかもしれないと思うと、時代背景や社会的要因を考えずにはいられない。
 邦楽の伝統が家元制度のもとでゆるぎなく生きている一方で、日本音楽集団が今日まで発展してきた理由の第一は、その中心に作曲家の創造が有り続けたこと、演奏家も常に創造に参加する姿勢が貫かれ、それは楽器の改良まで含めて言えること、そしてあえてこの言葉を使うが、運営に民主主義が貫かれてきたことだと思う。
 ごく初期から夏期合奏研究会を行い、研究団員制度が開始され、「邦楽現代」誌が発行され、また演奏会企画、運営すべてに団員が参加している、それが他の音楽家組織にはないところ。また、団内の結束と同時につねに広く聴衆層を視野にいれて活動してきたことも特色としてあげられるのではないか。
 背景としては、1955年にNHK技能者育成会(一期生に宮田耕八朗)、1962年には日本音楽舞踊会議が発足。これには邦楽4人の会や民族音楽の会、長澤勝俊そして私も参加した。学生三曲連盟が全国的に盛んになる。東京労音の例会に伝統音楽のジャンルが加わると、70年代には日本音楽集団も出演する。
 1964年4月から72年3月までNHK「現代日本の音楽」の放送があり、1967年武満徹「ノヴェンバー ステップス」のニューヨークでの演奏があり、現代邦楽ブームが起こるが、これは一時的なものとして終わっている。
 日本音楽集団は二人の個性的な作曲家を擁してスタートした。三木稔は早くに離れたとはいえ作品はそのまま生き続けている。
 長澤勝俊の歩みは「長澤勝俊 音に命を吹き込む‥長澤音楽のすべて」(日本音楽集団発行)に詳しいが、南方の戦地からアコーディオンをかついで帰ってすぐに人形劇団プークの音楽を担当することになった。戦前の吉田隆子を引き継いだ形である。
 思えば亡くなるほんの少し前のことだが、川尻泰司氏が吉田隆子のことで私宅を訪ねてこられた。氏は、本題に入るまえに長澤さんについてどうしても伝えておきたいことがあるといって次のような話をされた。
 1953年、はじめての天然色人形劇映画「セロ弾きのゴーシュ」が伊福部昭音楽で作られている。
 プーク公演では長澤音楽なのだから当然映画も自分がと思っていたかれに川尻が制作者側からの意向を伝えたとき、長澤は本当にはげしく泣いて悔しがったという。
 清瀬保二のところに通うようになったのはそれからのことだそうだが、かれが、そこで学んだのは単なる作曲技術ではなく、創作の姿勢であったことはいうまでもない。

 伊福部昭と清瀬保二は、三木、長澤それぞれの師であるだけでなく、日本音楽集団の根本的な創造思想的な支えになっていると私は思う。
 郢曲「鬢多々良」は集団が第20回定期演奏会にさいして依嘱初演されて以後、繰り返し演奏されている。
 私が始めて尾山台の伊福部宅を訪ねたときは、ちょうどこの最新作が話題となった。そのとき伝えられたのは、作曲者としてはなんとしても江戸時代以後の邦楽イメージを避けたかったということ、と同時にこの踊りは、当時流行りのゴーゴーのようなものと思ってもらえばいい、ということであった。とすると、まだもう一息、演奏に自由奔放さが加わってもいいのではないか。
 清瀬保二は、「尺八三重奏曲」のときもだが、「日本楽器による八重奏曲」のときも、「自分は洋楽畑の人間だから伝統楽器の作品を書くことなど思いもよらなかった」といっている。それにしては4楽章仕立てのまさに交響曲といいたいほどの内容、「敗戦から今日までの日本の発展の姿、起伏もあり哀しみもあった時代的に大きなもの」をもりこんでいる。
 1964年の放送初演の時にこれだけの大合奏が可能だったのは、邦楽4人の会、東京尺八三重奏団、そして正式発足以前の日本音楽集団のメンバーがすべて集められたからである。
 この曲の甦演は2009年、日本音楽集団45周年にさいして行われた。
 楽譜の復元(音楽の世界社発行)にはそれなりの苦労をしたが、邦楽器を前にしても洋楽作曲家としてのゆるがぬ姿勢がつらぬかれているのだから、編成はいくらでも大きくして良く、まさに邦楽器オーケストラでの演奏も可能なはず。
 いつかそのような機会にめぐりあいたいものである。