創立メンバーであり、指揮者・代表として日本音楽集団と共に長年歩んできた田村拓男名誉代表が創立時からを振り返る回顧録。
◆現代邦楽の黎明
 村岡実、横山勝也、宮田耕八朗の3人の尺八奏者が開いた「第2回東京尺八三重奏団演奏会」(1963年5月21日〈火〉〜第一生命ホール)は日本音楽集団結成へと導いた。
 ジョン・ケージが尺八の将来の発展性を予見したように1960年代の日本音楽はまさに尺八が牽引したと言える。江戸時代に発生した三味線・箏などの近世邦楽は、流派・家元制度の堅城の下に揺るぎない地歩を占めていたが、第2回東京尺八三重奏団演奏会は、尺八が近代音楽の主にならんと打って出るものであり、黎明を告げるものであった。
(写真は、東京尺八三重奏団第2回演奏会パンフレット)


【プログラム】
(1) 「ネオンが消えるとき」中村八大作曲
(2) 「夕暮れ」元橋康男作曲
(3) 尺八五重奏「飾画」船川利夫作曲
(4) 幻想曲「日本の庭」元橋康男作曲
(5) 「ソネット」三木稔作曲
(6) 「火焔」柴田耕頴(こうえい)作曲、
(7) 「尺八三本のための小曲」長澤勝俊作曲、
(8) 「雨の島」三木稔作曲、
(9) 「くるだんど」〜奄美の旋律による邦楽器と混声合唱のためのバラード〜三木稔作曲

[村岡・横山・宮田、三人の叙述] (プログラムより抜粋)
尺八の楽器としての優秀さは知る人ぞ知るで、その音色の多様性、表情の豊かなことは他に類を見ないと思います。世界中どこに持って行っても恥ずかしくない日本固有の立派な楽器です。ただ、その優秀性を遺憾なく発揮して現代に生かすような徹底的実験が試みられたことはこれまで2〜3の例の他にはほとんどありません。そのため尺八は一千年前のミイラのごとく地下に埋もれたままで、殆どの人にその実態を知られておりません。全く古めかしい既成概念― それを崩してゆくことが如何に至難なわざであるかを痛感させられております。私たち三人は、あらゆる角度から尺八の楽器としての可能性を研究し、発展して行こうと意気投合して一緒に音を出し始めてからやっと一年半になります。
(写真は、東京尺八三重奏団第2回演奏会パンフレット)

[伊福部昭氏の言葉]
 現在、日本で行われている民族音楽の開発には大別して二つの方向が認められる。其の一つは主として音階、旋法、楽式等の楽理的なものに主眼を置くものであり、他の一つは伝統的な民族楽器の特色を失うことなく其の表現能力を拡張し複雑な現代の要求に応え様とする方向である。
これらの傾向は第二次大戦後のアジア諸国、特に中国にあって強力に推し進められているものである。村岡君らはこの後者の範疇に入るきわめて真摯な探究者達である。
 尺八の歌口は楽器学上は『竪笛歌口』と呼ばれるもので木管楽器の内、最も表情力に富むものなのであるが現代の管弦楽の中にはこの種の発音様式を採っている楽器は含まれていない。この不合理は早くから知られ我が国では1935年、大倉喜七郎に依って此の尺八の歌口と、テオバルト・ベーム機構とを組み合わせたOkraloという楽器が創案された。しかしその本来の音色上の特色を失ったため其の存在意義が薄れ現在では全く消滅してしまった。  村岡君らはこの轍を踏むことなく本来の特色をのこしたまま機構及び奏法の上で種々な改革を試みておられる。今回、広い分野に亘る作曲家の協力を得てその成果を問わんとしておられる。心からの成功を祈って止まない。(プログラムより転載)

 「第2回東京尺八三重奏団演奏会」は村岡さんの主導により人気作曲家でピアニストの中村八大や、すでに尺八曲を多数作っていた船川利夫、元橋康男、柴田耕頴(こうえい)、長澤勝俊、三木稔ら6人の作曲家に委嘱して新作を発表するというもので当時の邦楽界・尺八界を考えると全く稀有なことであった。ポピュラー好みの村岡さんの意向に沿った作品が多い中で三木稔の作品「くるだんど/奄美の旋律による邦楽器と混声合唱のためのバラード」が異彩を放つ。すでに《第11回民放大会》の南日本放送からの参加作品として書かれていたもので受賞作品にもなっていた。  村岡さんは早くからポピュラー音楽で活躍していた邦楽界では珍しいスタジオミュージシャン。その村岡さんが呼び掛けた3人による東京尺八三重奏団演奏会の助演者には、後に日本音楽集団結成につながる筝(山内喜美子)・三味線(杉浦弘和)・琵琶(山田美喜子)・打楽器(田村拓男)などの和洋楽器奏者らが参加していた。

◆「くるだんど」の演奏
 演奏が終わるやいなや客席からのざわめき・興奮といったものが巻き起こった。我々演奏者らも「これはただ事ではない」と興奮した気持ちで動き回り話し合っていた。  日本の楽器による合奏でこのような出来事は珍しい。邦楽界に何かとてつもない動きが起こり始めていることが察しられ皆が興奮状態。その後反省会や今後の事について話し合うために東京音楽社(内藤克洋社長〜演奏会の世話をされた方)事務所や村岡さん宅に集まり、夜を徹して話し合うことになった。起こりうるさまざまなことを想定しては喧々諤々。
 夜が白む頃、三木さんがふと「"日本音楽集団"というのはどう?」と切り出した。杉浦さんがすかさず「それがいい、それで決まった」と大きな声。みんなも「アツ!」と声にならない声。「邦楽」でも「洋楽」でもない、これからの「日本」の「音楽」を創造していく仲間でありグループの「集団」の誕生。まさに邦楽界の"あけぼの"だ!
 第1回演奏会が11月17日、第一生命ホールでと決まった。

◆五線譜が読める邦楽家が結成に参加
 当時、映画音楽やコマーシャル、ラジオ・テレビなどの劇伴(げきばん)や、レコード会社の録音などが活発に行われ、スタジオミュージシャンと呼ばれるプロ演奏家が存在していた。大勢の洋楽器奏者に交じって五線譜が読める邦楽演奏家もいた。尺八をはじめ箏の山内喜美子、宮本幸子、三味線の杉浦弘和、琵琶の山田美喜子らが活躍していた。
 文化映画などの音楽つくりもしていた三木さんは、いわばスタジオミュージシャンの中にいた邦楽演奏家らに声をかけて「くるだんど」を仕上げていたのだった。